2009年1月 「憐れみの主」
マタイによる福音書 第12章7節
人はどう生きるべきか、社会はどうあるべきか。その尺度が旧約聖書の場合は「律法」でした。日常生活の細部にいたるまで決まり事があり、それを守ることが信仰の証しだったのです。律法は「神様のモノサシ」だからです。
イエス様も「神様のモノサシ」を大切に考えていました。ただ、モノサシそのものよりも、それを与えた神様がどういう方かと問うのです。その答えは旧約聖書にありました――『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア6の6)。
聖書がいう《憐れみ》は「かわいそうに思う」だけではありません。「(母のように)いつくしむ」という言葉や、「母の胎」というイメージがあります。また、深い喜びや悲しみに対し「はらわたが動く」という表現もあります。神様は、私たちひとりひとりの身に起こる事を「我が事として」受け止めてくださる方なのです。そして憐れみを受けるこの私にも、そうした憐れみを自分のモノサシとして生きるようにと求めているのです。